2017/07/09

維摩経 3章2 目連[漢日英]


維摩経

The Vimalakirti Sutra

弟子品第三
弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
Chapter 3 The Disciples





前記事『舎利弗』

大目揵連
マハー・マウドガリヤーヤニー・プトラ
Maudgalaputra



佛告大目犍連
汝行詣維摩詰問疾

仏、大目揵連(だいもくけんれん)に告げたまわく、
『汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え。』

そこで世尊は、長老のマハー・マウドガリヤーヤニー・プトラ(目連、もくれん)に言われた。
「おまえ、ヴィマラキールティの病気見舞いに行きなさい。

The Buddha then said to Maudgalaputra:
"Go to Vimalakirti and enquire after his health on my behalf."



目連白佛言
世尊
我不堪任詣彼問疾

目連(もくれん、大目揵連)、仏に白して言さく、
『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。

マウドガリヤーヤニー・プトラも言う。
「世尊よ、かの高貴な人の病気を見舞うだけの能力は、私にはありません。

Maudgalaputra said:
"World Honoured One, I am not qualified to call on him to enquire after his health.



所以者何
憶念我昔入毘耶離大城
於里巷中為諸居士說法

所以は何んとなれば、
憶念するに、我、昔毘耶離大城(びやりだいじょう)に入り、里巷(りこう、小曲の路)の中に於いて、諸の居士(こじ、資産家の信者)の為に法を説きき。

それはなぜかといえば、世尊よ、次のことを思い出すからです。あるとき、ヴィマラキールティの大城のとある四辻で、在家の人々に説法をしていますと、

The reason is that one day when I came to Vaisali to expound the Dharma to lay Buddhists (upasakas) in the street there,



時維摩詰來謂我言
唯大目連
為白衣居士說法
不當如仁者所說

時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、
『唯、大目連、白衣(びゃくえ、俗人)の居士が為に法を説くこと、まさに仁者(にんじゃ、アナタ)の説く所の如くにはすべからず。

そこへヴィマラキールティがやってきて、わたしに次のように申しました。
「大徳マウドガリヤーヤニー・プトラよ、あなたがお説きになったようには、白衣の在家者たちに説法をしてはいけません」

Vimalakirti came and said:
"Hey Maudgalaputra, when expounding the Dharma to these upasakas, you should not preach like that for what you teach 



夫說法者當如法說
法無眾生離眾生垢故

それ法(真実)を説くとは、まさに如法(にょほう、法のまま)に説くべし。
法には衆生なし、衆生の垢(あか、五陰を本として起こる身見)を離るるが故に。

大徳よ、法は(如来の)教法のままに説かれるべきです。法は衆生ではなく、衆生の汚れを離れたものです。

should agree with the absolute Dharma, which is free from the (illusion of) living beings;



法無有我
離我垢故

法には我あること無し、
我垢(がく、我見)を離るるが故に。

自我(アートマン)ではなく、欲望の汚れを離れています。

is free from the self for it is beyond an ego; 



法無壽命
離生死故

法には寿命なし、
生死を離るるが故に。

寿命あるものではなく、生まれたり死んだりすることを離れています。

from life for it is beyond birth and death 



法無有人
前後際斷故

法には人あること無し、
前後際(ぜんごさい、前世と来世)断(断絶)ずるが故に。

個我(プドガラ)ではなく、時間的に前後の極限がありません。

and from the concept of a man which lacks continuity (though seemingly continuous, like a torch whirled around);



法常寂然
滅諸相故

法は常に寂然(じゃくねん、寂静にしてナミタタズ)たり、
諸相(物事の外に表れたるスガタ)を滅するが故に。

(法は)寂静によって性格づけられ、

is always still for it is beyond (stirring) phenomena;



法離於相
無所緣故

法は相(スガタ)を離る、
所縁(しょえん、心識の対象)なきが故に。

欲望(の対象)ではなく、対象のないままにあり、

is above form for it is causeless;



法無名字
言語斷故

法には名字(みょうじ、名前)なし、
言語(ごんご、言葉)断ずるが故に。

文字であらわされることがなく、あらゆる言葉の絶えたものです。

is inexpressible for it is beyond word and speech;



法無有說
離覺觀故

法には説(説明)あること無し、
覚観(かくかん、心の働き)を離るるが故に。

語りえないものであり、あらゆる(思考の)波と離れたものです。

is inexplainable for it is beyond intellection;



法無形相
如虛空故

法には形相なし、
虚空の如きが故に。

あらゆるものに遍満し、虚空のようであります。

is formless like empty space;



法無戲論
畢竟空故

法には戯論(けろん、一切の言論)なし、
畢竟(ひっきょう、ツマルトコロ)空なるが故に。

色彩も共通の性質も形態もなく、あらゆる動きと離れています。

is beyond sophistry for it is immaterial;



法無我所
離我所故

法には我所(がしょ、ワガモノまた身心)なし、
我所を離るるが故に。

わがものということがなく、わがものとしてとらえることがありません。

is egoless for it is beyond (the duality of) subject and object;



法無分別
離諸識故

法には分別(ふんべつ)なし、
諸の識(しき、認識)を離るるが故に。

表象することもなく、心意とか識知とかを離れています。

is free from discrimination for it is beyond consciousness;



法無有比
無相待故

法には比(たぐい、類)あること無し、
相待(そうたい、相対)なきが故に。

匹敵し相対するものがないから、比べるべきものがないのです。

is without compare for it is beyond all relativities;



法不屬因
不在緣故

法は因に属せず、
縁に在らざるが故に。(他に対し因縁せず、因縁の対象ともならない)

対応する原因もなく、縁として設定されるべきものもありません。

is beyond cause for it is causeless;



法同法性
入諸法故

法は法性(ほっしょう、諸法の本性)に同じ、
諸法(しょほう、一切の物事)に入るが故に。(法は万物に周遍せざること無し、何処ニモアル)

法界のなかに集約されるから、あらゆる法は等しくおかれるのです。

is identical with Dharmata (or Dharma-nature), the underlying nature (of all things);



法隨於如
無所隨故

法は如(にょ、真如、すなわち真実にして不変)に随う、
随う所なきが故に。(万物に周遍するが故に、特に或る物に随うこと無し)

それは真如のあとに従うものです、ただ”あとに従わない”というあり方ではあるが。

is in line with the absolute for it is independent;



法住實際
諸邊不動故

法は実際(じっさい、真如)に住す、
諸辺(有無の二見より起こる所の中正ならざる辺見)に動ぜざるが故なり。

絶対に不動のものですから、真実の極限にまで到達します。

dwells in the region of absolute reality, being above and beyond all dualities;



法無動搖
不依六塵故

法は動揺なし、
六塵(ろくじん、色声香味触法)に依らざるが故に。

六種の(感覚の)対象にもとづかないから、不動なものであり、

is unmovable for it does not rely on the six objects of sense;



法無去來
常不住故

法には去来(こらい、生滅)なし、
常に不住(ふじゅう、非諸法)なるが故に。

とどまることがないから、どこへ行くこともどこから来ることもありません。

neither comes nor goes for it does not stay anywhere;



法順空隨無相應無作

法は空に順(した)がい、無相に随い、無作(むさ、因縁の造作なし)に応ず。(本性は空であり、知覚できる相なく、他に作用することもなし)

(法は)空性のなかに集約され、無相をもってあらわにされ、無願の性質のあるものです。

is in line with voidness, formlessness and inactivity;



法離好醜
法無增損
法無生滅

法には好醜を離る。
法には増損(増減)なし。
法には生滅なし。

分別することもなく、(否定し)除くこともありません。
捨てることもなく、立てることもなく、生も滅もありません。

is beyond beauty and ugliness; neither increases nor decreases;



法無所歸
法過眼耳鼻舌身心

法には帰(帰依、タノム)する所なし。
法は眼耳鼻舌身心(眼耳鼻舌身意)を過ぐ。

帰すべきよりどころ(アーラヤ)でもなく、眼や耳や鼻や舌や身体や心のおよぶ範囲を超えています。

is beyond creation and destruction; does not return to anywhere; is above the six sense organs of eye, ear, nose, tongue, body and mind;



法無高下
法常住不動
法離一切觀行

法には高下(こうげ)なし。(平等なり)
法は常住にして不動なり。
法は一切の観(観察)行(行為)を離る。(法は本より無相にして観行する所なし)

高くなることも低くなることもなく、静止して不動であり、あらゆる動きを離れています。

is neither up nor down; is eternal and immutable; and is beyond contemplation and practice.



唯大目連
法相如是
豈可說乎

唯(ゆい)、大目連、
法の相はかくの如し、
あに説くべけんや。

大徳マウドガリヤーヤニー・プトラよ、
このような法において、説くというようなことはいったいどのようなものとしてあるのでしょうか。

"Maudgalaputra, such being the characteristics of the Dharma, how can it be expounded?"



夫說法者
無說無示

それ、法を説くとは、
説くこと無く、示すこと無し。

法が説かれたということが、すでにありもしないことを増広していう言葉なのです。

For expounding it is beyond speech and indication,



其聽法者
無聞無得

それ、法を聴くとは、
聞くこと無く、得ること無し。

もし聞き手があるなら、彼らもまた増広されたものを聞いているのです。
大徳よ、増広された言葉が実在するものではないならば、そこには法を説くこともなく、聞くこともなく、理解することもありません。

and listening to it is above hearing and grasping.



譬如幻士為幻人說法
當建是意而為說法

譬えば、幻士(幻術師)の幻人の為に法を説くが如し。
まさに、この意を建てて、しかも為に法を説くべし。

あたかもそれは、幻としてあらわれている男が、幻としての男に法を説くようなものです。このような点に留意して、法が説かれねばなりません。

This is like a conjurer expounding the Dharma to illusory men, and you should always bear all this in mind, when expounding the Dharma.



當了眾生根有利鈍
善於知見無所罣礙

まさに、衆生の根(こん、本性)に利鈍あることを了(了知)して、
よく知見(ちけん、見聞覚知)に於いて、罣礙(けげ、サマタグ)する所なく、

あなたはまず、人々の機根能力をよく知るべきです。知恵の眼をもってよく見通し、

You should be clear about the sharp or dull roots of your audience and have a good knowledge of this to avoid all sorts of hindrance.



以大悲心讚于大乘
念報佛恩不斷三寶
然後說法

大悲心を以って大乗を讃じ、
仏恩に報じて三宝(さんぽう、仏法僧)を断たしめざることを念じ、
然る後に、法を説くべし。

大慈悲心を起こし、大乗をたたえ、仏陀の恩を思い浮かべ、心を浄らかにし、かつ法の言語によく通暁することによって、三宝の系譜を断絶させないために、あなたは法を説くべきです。

Before expounding the Dharma, you should use your great compassion (for all living beings) to extoll Mahayana to them and think of repaying your own debt of gratitude to the Buddha by striving to preserve the three treasure (of Buddha, Dharma and Sangha) for ever.



維摩詰說是法時
八百居士發阿耨多羅三藐三菩提心

維摩詰、この法を説くの時、八百の居士、阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。

このように彼が説法したとき、世尊よ、家長たちのこの集まりのなかから、八百の家長たちが無上の正しいさとりに対して発心しました。

"When Vimalakirti spoke, eight hundred upasakas set their minds on seeking supreme enlightenment (anuttara-samyak-sambodhi).



我無此辯
是故不任詣彼問疾

我に、この辯(弁舌)なし。この故に、彼れに詣りて、疾を問うに任(た)えず。

私はそれ以上、なにも言えなくなくました。世尊よ、そんなわけで、かの高貴な人の病気見舞いに行く能力は私にはありません。

I do not have the eloquence and am, therefore, not fit to call on him to enquire after his health."











漢文:鳩摩羅什『維摩詰所説経三巻』
書き下し文:つばめ堂通信
和訳:長尾雅人
English by Charles Luk

2017/07/08

維摩経 3章1 舎利弗[漢日英]


維摩経
The Vimalakirti Sutra

弟子品第三
弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
Chapter 3 The Disciples





舎利弗
シャーリプトラ
Sariputra



爾時長者維摩詰自念
寢疾于床
世尊大慈寧不垂愍

その時、長者維摩詰(ゆいまきつ)自ら念(おも)えらく、
『疾(やまい)に床に寝(い)ぬ。
世尊、大慈にて、なんぞ愍(あわれ)みを垂れたまわざらんや。』

そのとき、リッチャヴィー族のヴィマラキールティはこのように考えた。「私が病気になり、苦しんで病床についているのに、阿羅漢であり完全な知の持ち主である如来は、私のことを気にもかけず、同情もなさらないで、そのために病気見舞いに誰もお遣わしにならないのだろうか」と。

Vimalakirti wondered why why the great compassionate Buddha did not take pity on him as he was confined to bed suffering from an indisposition.



佛知其意
即告舍利弗
汝行詣維摩詰問疾

仏、その意を知り、
すなわち舍利弗に告げたまわく、
『汝、行きて維摩詰に詣(いた)りて、疾を問え。』

そこで世尊は、ヴィマラキールティがこのように考えていることを知って、長老のシャーリプトラ(舎利弗)に告げた。
「シャーリプトラよ、おまえヴィマラキールティの病気見舞いに行きなさい」

The Buddha knew of his thought and said to Sariputra:
"Go to Vimalakirti to enquire after his health on my behalf."



舍利弗白佛言
世尊
我不堪任詣彼問疾

舍利弗、仏に白(もう)して言(もう)さく、
『世尊、我は彼れに詣りて、疾を問うに堪任(たんにん、耐える)せず。

こういわれて、長老シャーリプトラは世尊に申し上げた。
「世尊よ、私は、リッチャヴィーのヴィマラキールティの病気見舞いに行くだけの能力はありません。

Sariputora said:
"World Honoured One, I am not qualified to call on him and enquire after his health. 



所以者何
憶念我昔曾於林中宴坐樹下

所以(ゆえ、理由)は何(いか)んとなれば、
憶念(おくねん、思い出す)するに、我、かつて林中に於いて、樹下に宴坐(えんざ、座禅)しき。

なぜかと申しますと、わたしは次のことを思い出すからです。あるとき、私がある樹の下で座禅をしていると、

The reason is that once, as I was sitting in meditation under a tree in a grove, 



時維摩詰來謂我言

時に、維摩詰来たりて、我に謂(い)って言わく、

ヴィマラキールティもまた、その樹のある場所へやってきて、わたしに次のように申しました。

Vimalakirti came and said:



唯舍利弗
不必是坐為宴坐也

『唯(ゆい、モシ)、舍利弗、
必ずしも、これ坐するを宴坐(えんざ、座禅)と為さず。

「大徳シャーリプトラよ、あなたがやっているような座禅のやり方で、座禅は修行すべきものではありません。

"Sariputra, meditation is not necessarily sitting.



夫宴坐者
不於三界現身意
是為宴坐

それ宴坐とは、
三界(さんがい、欲界、色界、無色界、すなわち世間)に於いて、身と意とを現ぜざる、
これを宴坐と為す。

(ほんとうの座禅というものは)身体も心も三界のなかにあらわれないように座禅すべきものなのです。

For meditation means the non-appearance of body and mind in the three worlds (of desire, form and no form);



不起滅定而現諸威儀
是為宴坐

(た、起動)たず滅定(めつじょう、心の働きを滅し尽くす)して、しかも諸の威儀(いぎ、行住坐臥)を現ずる、
これを宴坐と為す。

滅尽(定)にはいったままで、しかも行住坐臥があらわれているような座禅をしなさい。

giving no thought to inactivity when in nirvana while appearing (in the world) with respect-inspiring deportment; 



不捨道法而現凡夫事
是為宴坐

道法(どうほう、仏となる為の修行)を捨てずして、しかも凡夫(ぼんぶ、俗人)の事(俗事)を現ずる、
これを宴坐と為す。

すでに獲得した(聖者としての)姿を捨てないままで、しかも普通の凡人の性格をもあらわす、というように座禅をしなさい。

not straying from the Truth while attending to worldly affairs;



心不住內亦不在外
是為宴坐

心、内に住せず、また外に在らざる、
これを宴坐と為す(聖者は心を内に摂(おさ)め、凡夫は心を外に馳す、菩薩は心を内外に等しくす)

あなたの心が、内にもなく、外の物質にも向かわない、というように座禅をしなさい。

the mind abiding neither within nor without;



於諸見不動而修行三十七品
是為宴坐

諸見(しょけん、断常の二見を本として起こる六十二種の妄見)に於いて動ぜず(諸見を捨てず)して、しかも三十七品(三十七道品、仏となる為の修行)を修行する、
これを宴坐と為す。

あらゆる謬見を舎離しないままで、しかも三十七菩提分の上にも姿をあらわす、というように座禅をしなさい。

being imperturbable to wrong views during the practice of the thirty-seven contributory stages leading to enlightenment:



不斷煩惱而入涅槃
是為宴坐

煩悩を断ぜずして、しかも涅槃(寂滅)に入る、
これを宴坐と為す。

輪廻に属する煩悩を断たたないままで、しかも涅槃にはいることにもなる、というように座禅をしなさい。

and not wiping out troubles (klesa) while entering the state of nirvana.



若能如是坐者
佛所印可

もし、よく、かくの如く坐する者は、
仏の印可(いんか、認可)したもう所なり』と。

大徳シャーリプトラよ、すべてこのように座禅を行うならば、世尊は、彼らを座禅者とよばれるのです」

If you can thus sit in meditation, you will win the Buddha's seal."



時我世尊
聞說是語默然而止不能加報

時に、世尊、
この語を聞いて黙然として止め、報(ほう、返事)を加うること能(あた)わざりき。

こういわれて、世尊よ、わたしは彼の説く真理を聞いて、それに対して言葉をかえすことができず、なにも言わないままでした。

"World Honoured One, when I heard his speech I was dumbfounded and found no word to answer him.



故我不任詣彼問疾

故に、我、彼れに詣りて疾を問うに任(た)えず』と。

ですから、私には、かの高貴な人の病気見舞いに行くだけの能力はないのです」

Therefore I am not qualified to call on him and enquire after his health."







次記事『目連』







漢文:鳩摩羅什『維摩詰所説経三巻』
書き下し文:つばめ堂通信
和訳:長尾雅人
English by Charles Luk