維摩経
The Vimalakirti Sutra
弟子品第三
弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
Chapter 3 The Disciples
舎利弗
シャーリプトラ
Sariputra
爾時長者維摩詰自念
寢疾于床
世尊大慈寧不垂愍
その時、長者維摩詰(ゆいまきつ)自ら念(おも)えらく、
『疾(やまい)に床に寝(い)ぬ。
世尊、大慈にて、なんぞ愍(あわれ)みを垂れたまわざらんや。』
そのとき、リッチャヴィー族のヴィマラキールティはこのように考えた。「私が病気になり、苦しんで病床についているのに、阿羅漢であり完全な知の持ち主である如来は、私のことを気にもかけず、同情もなさらないで、そのために病気見舞いに誰もお遣わしにならないのだろうか」と。
Vimalakirti wondered why why the great compassionate Buddha did not take pity on him as he was confined to bed suffering from an indisposition.
佛知其意
即告舍利弗
汝行詣維摩詰問疾
仏、その意を知り、
すなわち舍利弗に告げたまわく、
『汝、行きて維摩詰に詣(いた)りて、疾を問え。』
そこで世尊は、ヴィマラキールティがこのように考えていることを知って、長老のシャーリプトラ(舎利弗)に告げた。
「シャーリプトラよ、おまえヴィマラキールティの病気見舞いに行きなさい」
The Buddha knew of his thought and said to Sariputra:
"Go to Vimalakirti to enquire after his health on my behalf."
舍利弗白佛言
世尊
我不堪任詣彼問疾
舍利弗、仏に白(もう)して言(もう)さく、
『世尊、我は彼れに詣りて、疾を問うに堪任(たんにん、耐える)せず。
こういわれて、長老シャーリプトラは世尊に申し上げた。
「世尊よ、私は、リッチャヴィーのヴィマラキールティの病気見舞いに行くだけの能力はありません。
Sariputora said:
"World Honoured One, I am not qualified to call on him and enquire after his health.
所以者何
憶念我昔曾於林中宴坐樹下
所以(ゆえ、理由)は何(いか)んとなれば、
憶念(おくねん、思い出す)するに、我、かつて林中に於いて、樹下に宴坐(えんざ、座禅)しき。
なぜかと申しますと、わたしは次のことを思い出すからです。あるとき、私がある樹の下で座禅をしていると、
時維摩詰來謂我言
時に、維摩詰来たりて、我に謂(い)って言わく、
ヴィマラキールティもまた、その樹のある場所へやってきて、わたしに次のように申しました。
Vimalakirti came and said:
唯舍利弗
不必是坐為宴坐也
『唯(ゆい、モシ)、舍利弗、
必ずしも、これ坐するを宴坐(えんざ、座禅)と為さず。
「大徳シャーリプトラよ、あなたがやっているような座禅のやり方で、座禅は修行すべきものではありません。
"Sariputra, meditation is not necessarily sitting.
夫宴坐者
不於三界現身意
是為宴坐
それ宴坐とは、
三界(さんがい、欲界、色界、無色界、すなわち世間)に於いて、身と意とを現ぜざる、
これを宴坐と為す。
(ほんとうの座禅というものは)身体も心も三界のなかにあらわれないように座禅すべきものなのです。
For meditation means the non-appearance of body and mind in the three worlds (of desire, form and no form);
不起滅定而現諸威儀
是為宴坐
起(た、起動)たず滅定(めつじょう、心の働きを滅し尽くす)して、しかも諸の威儀(いぎ、行住坐臥)を現ずる、
これを宴坐と為す。
滅尽(定)にはいったままで、しかも行住坐臥があらわれているような座禅をしなさい。
giving no thought to inactivity when in nirvana while appearing (in the world) with respect-inspiring deportment;
不捨道法而現凡夫事
是為宴坐
道法(どうほう、仏となる為の修行)を捨てずして、しかも凡夫(ぼんぶ、俗人)の事(俗事)を現ずる、
これを宴坐と為す。
すでに獲得した(聖者としての)姿を捨てないままで、しかも普通の凡人の性格をもあらわす、というように座禅をしなさい。
not straying from the Truth while attending to worldly affairs;
心不住內亦不在外
是為宴坐
心、内に住せず、また外に在らざる、
これを宴坐と為す(聖者は心を内に摂(おさ)め、凡夫は心を外に馳す、菩薩は心を内外に等しくす)。
あなたの心が、内にもなく、外の物質にも向かわない、というように座禅をしなさい。
於諸見不動而修行三十七品
是為宴坐
諸見(しょけん、断常の二見を本として起こる六十二種の妄見)に於いて動ぜず(諸見を捨てず)して、しかも三十七品(三十七道品、仏となる為の修行)を修行する、
これを宴坐と為す。
あらゆる謬見を舎離しないままで、しかも三十七菩提分の上にも姿をあらわす、というように座禅をしなさい。
being imperturbable to wrong views during the practice of the thirty-seven contributory stages leading to enlightenment:
不斷煩惱而入涅槃
是為宴坐
煩悩を断ぜずして、しかも涅槃(寂滅)に入る、
これを宴坐と為す。
輪廻に属する煩悩を断たたないままで、しかも涅槃にはいることにもなる、というように座禅をしなさい。
and not wiping out troubles (klesa) while entering the state of nirvana.
若能如是坐者
佛所印可
もし、よく、かくの如く坐する者は、
仏の印可(いんか、認可)したもう所なり』と。
大徳シャーリプトラよ、すべてこのように座禅を行うならば、世尊は、彼らを座禅者とよばれるのです」
If you can thus sit in meditation, you will win the Buddha's seal."
時我世尊
聞說是語默然而止不能加報
時に、世尊、
この語を聞いて黙然として止め、報(ほう、返事)を加うること能(あた)わざりき。
こういわれて、世尊よ、わたしは彼の説く真理を聞いて、それに対して言葉をかえすことができず、なにも言わないままでした。
"World Honoured One, when I heard his speech I was dumbfounded and found no word to answer him.
故我不任詣彼問疾
故に、我、彼れに詣りて疾を問うに任(た)えず』と。
ですから、私には、かの高貴な人の病気見舞いに行くだけの能力はないのです」
Therefore I am not qualified to call on him and enquire after his health."
…
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漢文:鳩摩羅什『維摩詰所説経三巻』
書き下し文:つばめ堂通信
和訳:長尾雅人
English by Charles Luk
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